カルタス…友人からの手紙
堀越高校を辞める日、サッカー部のみんなの前で挨拶をしたような記憶が蘇った。
何を話したかは覚えてなく、16歳の青年だし『ありがとうございました。お世話になりました』程度の事しか言えてなかったと思う。
ただ晴れた日だったという事は覚えている。
学校を辞めてから出発までの10日くらいは、渋谷区にあった知り合いのクラブチームで練習をさせてもらった。
このチームは全国大会に行くような力のあるクラブで、コーチ陣がサッカーというスポーツの楽しみ方、勝ち方をとにかく理解していた。
知識があるという事は、その物事が好きだという証明であり、これに勝るものはない。
これはどの世界でもそうだ。
このチームは後に10日間ほどの短期サッカー留学でアルゼンチンを訪れた。
また別の団体も同時期に招致され、
この二団体をアルゼンチンに招いたのが、僕の仲介人だった日系アルゼンチン人であり、経験のない割には中々のやり手だったと思うが、とにかくこの方は口が達者だった。
日本の二団体がアルゼンチンに訪れるのは、僕がアルゼンチンに来てしばらく経ってからだったので、この時の思い出話はまた折を見て綴ります。
アルゼンチンへの出発の日、完成して5年も経っていなかった成田エクスプレスで成田空港へと向かう。
出発の新宿駅のホームには母親と堀越高校の同級生が一人見送りに来てくれていた。
使い捨てカメラで記念に写真を撮り、友達は僕が持っていたノートに住所を書いてくれた。
彼とは何度も手紙のやり取りをした。
手紙には堀越高校でのサッカーの話や、日常の馬鹿話が書かれていて、どの手紙の最後にも「頑張れよ」と書いてあった。
フチに赤と青のデザインが施された国際郵便の封筒がポストに入っていると、いつも嬉しくて一通の手紙を何度も何度も読み返した記憶がある。その度に堀越の皆より上手くならなければと反骨精神が湧き上がり頑張れたのは彼のおかげだった。
母から手紙も然りだ。母からの手紙は分厚く便箋はなぜかいつも鳩居堂のものだった。
先ず日本の最近のニュースが書かれ、次に店に誰がきて、こんな事があってという前置きがあり、本題はここからだ…食事をとってるかとか、練習はどうだとか、暮らしはどうだとか、アルゼンチンはどんな国かとか、質問ばかりですぐに答える事ができずいつもヤキモキした。
そして文書の最後にはやはり
「頑張れ」と書かれてあったが、
その後に必ず
「無理せず帰りたかったら帰ってきていい」
と書かれていた。
しかし僕はアルゼンチンに滞在中に日本に帰りたいと思った事は一度もなかった。
なぜなら僕は日本のサッカー界から逃げだした男だったし、その先にすでに目標をもう見つけていたからだ。
《二十歳でJリーガー》
になるという目標。
日本のサッカー界から逃亡し、日本のサッカー界に戻るという目標を立てていたのだ。
地球一周Jリーガーへの道。
なんとも不器用な生き方なのか、
なんだか今も変わらずに遠回りして夢を叶える不器用さには嫌気がさす。
あっ先ずは旅立ちの日の事を書きますね。
でも1000文字超えたし、続きは次回に…
また日本を出発できませんでした…