サバイブ

僕は「練習生でいる事しかができない」と告げられたリバープレートを離れる事に決めた。

アルゼンチンのビッククラブであるリバープレートの練習生として在籍し続けても、日本では味わえない経験を重ね、もちろん実力もつきアルゼンチンに来たという価値は高められたかもしれない。

誰が言ったかは知らないが『練習でできない事は試合ではできない』という言葉がある。

もちろんそれも一理あるが、

『試合での経験と記憶は一生の宝だ』

練習の記憶は日々上書きされていく中で、試合での経験は常に新たなページに書き記され残り続けていく。

それにこの時の一番の想いはアルゼンチン人のサッカー仲間達と公式戦で一喜一憂し共に戦うことだった。

リバープレートサテライトチームに練習参加をさせてもらい、紅白戦になった時の選手達はスイッチが入り、そのフットボールクレイジーさを肌で感じた時、

彼らにとってトップチームに上がる事はサバイバルであり、人生をかけた大勝負だと分かった。誰が一番サッカーを愛しているかを競うバトルロワイヤルがこの国では日々行われている。

時に仲間を蹴落とさなくてはならない。

彼らは勝ち上がる事を常に意識しながら、敗れた時にはその場を去る事も覚悟している。

こうして子供の頃から下克上を味わい、プロ選手としての感覚は養われていくのだと、アルゼンチンに来て数ヶ月ですでに日本との違いを感じた。

とにかく僕もこのサバイバルに参戦したかった。

 

この数年、日本サッカー界もアジアや世界大会で様々な結果を残し歓喜と敗北を味わった。

目まぐるしい成長を遂げている。

しかし、良いも悪いも日本サッカーは恵まれている。

グランドは整備され、ボールはちゃんと丸く、選手のほとんどがサッカー用のシューズを履いている。幸せな国だ。

でも幸せが教えてくれる事は少ない。

煌々と光る電気の下で太陽の日差しは必要ない。月明かりの風情も感じない。

だが貧しさは本当に大事なものを教えてくれる。そこから抜け出した者の強さは凄まじい。

僕らは南米の選手達のようにはなれない、

僕ら日本人は恵まれた環境の中で、僕らなりのスタイルを築き上げ闘う喜びを感じなければならない。

僕はリバープレートという1チームを引いた

3376チームあると言われるクラブから

所属先を探す事になった。

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僕はお客様…

アルゼンチンでのリーグ公式戦に出場するにはプロアマ問わず永住権の取得が必要だった。

南米へのサッカー留学と言えばキャプテン翼の影響からブラジルが相場で、日本のJリーグ開幕に大輪の花を咲かせた先駆者の三浦カズ選手の活躍もあり、ブラジルには沢山の日本人サッカー留学生が海を渡っていた。

日本人サッカー選手=下手から、

日本人サッカー選手=お金を持ってくるお客様

という扱いを受けている事はアルゼンチンへ来ていた日本人プレイヤーの耳にも入っていたし、アルゼンチンにいる僕らもまた少なからずお客様に過ぎなかった。

 

名門サッカークラブ、リバープレートの練習に参加できていた裏にはクラブ側と代理人の間で少なからず金銭のやり取りがあったと思われる。

直接そのやり取りを目にした訳ではないが、永住権がなく公式戦に参加できない選手の練習参加がクラブ側にメリットの無い事を考えると考えは妥当だ。

しかし、リバープレートでの練習に参加できる日々はとても刺激的で、芝生でのサッカーに慣れない僕は足をつりながら走り、日本のサッカーでは考えられないほど相手に身体をぶつけ戦っていた。

こうして僕はアルゼンチンサッカーを全身で感じ愛していく...

僕は周りの誰よりもサッカーを愛し、サッカーと結婚をした。

こんなにサッカーが下手だった僕がサッカーと結婚できたのは、紛れもなく愛でしかない。

しかし後にJ2モンテディオ山形の選手になった時、ある出来事がきっかけで僕はサッカーと離婚をする。

今では時が経ち元嫁のサッカーと交流することもあるが、サッカー選手を辞めた当時の生活は悲惨なものだった…それでも人間という生き物は面白いもので生きる希望を見果てぬ町に探す。この時期の話もゆくゆくは語る時がくるだろう。

 

希望に満ちていたアルゼンチンでのサッカー生活で僕は一つの選択の日を迎える。

アルゼンチンにサッカー留学している日本人サッカー選手のほとんどが手にしていない、永住権を取得する事ができると代理人から話があったのだ。

しかし、それに伴いリバープレートを離れるか否かの選択を迫られた。

永住権を手にし、公式戦に参加できる状況を満たしてもリバープレートでは試合には出れないと告げられたのだ。

僕は練習についていけている手応えがあった。

紅白戦に参加すればゴールも決めていた。

しかし、所詮お客様だったのだ。

試合に出ずにリバープレートの練習に参加し続けるか、公式戦に出場させてくれるクラブを探すか…僕は即座に後者を選んだ。

芝居もそうだが稽古だけしていても満たされない。

僕のクラブ探しが始まる…

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リバープレート2軍での記念撮影、

右から3番目辺りにいるのが僕です。

 

 

 

 

トップレベルの人格

僕がアルゼンチンの名門クラブ、リバープレートの2軍での練習に参加していたのは7月頃だった。

南半球に位置するブエノスアイレスの7月は冬にあたり気温も朝晩は一桁台と冷え込む。

南米というと『南』という文字がついているからか、一年中暖かいと思っている人も多いようだが、ブエノスアイレスには四季があり、春には日本から贈呈された桜がパレルモ公園というブエノスアイレス最大の地区にある大きな公園で花を咲かす。

一年に一度必ず咲く桜のように、僕は生涯一度のサッカー人生の中で花を咲かせる事ができたのだろうか…

今言えることは、自分なりの花を咲かし宿命のように散った気がする。

そして、この時期リバープレート2軍での練習に参加できた事はサッカー人生の蕾を確実に膨らませたと胸を張りたい。

 

ブエノスアイレスの冬、リバープレートの練習に参加する時にはトレーニングウェアが支給された。メーカーはアディダスで、黒をベースに白と赤のラインが入っている。

このトレーニングウェアに袖を通せた事は貴重な経験だった。

例えるなら、アルゼンチン人が日本に歌舞伎を学びにやってきて、来日1ヶ月で中村屋の稽古に参加させてもらい。家紋入りの稽古着に袖を通しているようなものだ。

 

ウォーミングアップのためグランド数週走る。

リラックスしているがふざけてる選手はいなかった。

一流のクラブ、しかもトップチームにも手が届く所まできてる選手達の立ち振る舞いは大人だ。

どこから来たか分からないアジア人のプレイヤーをバカにする事なく接してくれる。

もちろん腹の中で何を思っているかは分からない、正式に所属してない僕をライバルと思ってない事もわかる。だからこその態度だったかもしれない。

ただ思い返せば、このリバープレートの選手、後に携わる日本人のトップ選手や第一線で活躍している俳優、様々な業種のA1クラスの人達は、根本的に相手を尊重する。これは日本だけの文化ではない事は分かった。

ミスで貶す時間を無駄とし、

それよりも改善策を瞬時に見つける事を楽しんでいるようにすら感じる事がある。

自分の未熟さを恥ながら、そうありたいと常に思う。

 

この時自分はFWとして参加していた。シュート練習は常に調子が良く、連日遜色なくついていけてる人気がした。

紅白戦が始まると僕の居場所はグランドの外になる。

出てない選手同士でパス交換などをしながら間近でアルゼンチンのトップレベルのプレーを見る事ができたが、

それまでの練習と別人の選手達に圧倒された、

一番驚いた事は球ぎわへのプレッシャーの速さだ。

ボールを奪うチャンスとみるとハンマーが振り下ろされるかのように詰め寄り、骨や肉が当たる音がする。やられる方は文句など言わず。次のプレーに移っていく。

この中には確実にリバープレートのトップチームに上がり将来代表チームに入る逸材がいるんだと、僕はきっと口を開けていたと思う。

 

これがアルゼンチンサッカーなのだと、初めてこの国のサッカーが強さを感じた。

 

前回も記したがすでにトップチームを行き来していた選手に、アイマールやこないだまでレアル・マドリードの指揮をとっていたソラーリもいた。

アイマールに関しては当時気づく事ができず、後々記念に撮った写真を見返して驚いた。

しかしソラーリは、背丈も有りバランスのとれた体格と、僕の好きだったアルゼンチン代表選手レドンドのような左利きのプレーに格の違いを感じた事を覚えている。

 

ただ矛盾するが、恐ろしかったのが若さだ。

僕はリバープレートの練習に参加しながら周りの選手に負ける気が一切無かった。

この激しさに入っていけると自信があった。

日本では遠慮していた激しさが、この国では当たり前だった。

名門クラブのブランドに臆する事なく練習に参加し、トップレベルの選手と過ごした時間は今でもかけがえのない宝だったが、人間というのは成長し環境に馴染むと次の瞬間には新たな欲が生まれる。

僕は試合に出たかった。

それは紅白戦ではなく、

アルゼンチンでの公式戦に。f:id:onigiridream:20190620101309j:image

人格とプレイスタイル

アルゼンチンに来て数日が過ぎた。

日本のアビスパ福岡でもプレーしていた元アルゼンチン代表の選手、トログリオが開いている選手育成学校に数日通う事になり練習に参加していた。

アルゼンチンサッカーにはどの年齢、カテゴリーにも登録できずに流浪している選手がいる。

日本のように学校の部活が盛んではなく、クラブの下部組織に属さなくては公式戦には出場できず、選手としての未来もないからだ。

 

初日の練習の内容はあまり記憶にないが、ボールを使ったウォーミングアップから、ドリブルやパスを織り交ぜダッシュや中距離を走るフィジカルトレーニングを終え、紅白戦をしたような気がする。印象として残っている事は全てのトレーニングにボールを使っていた事だ。

練習を終えた僕の目には、ここに集まっている選手が《まだ所属先が見つからない選手というよりは、行き場のない選手》に見えた。

もちろん可能性を秘めたプレーヤーも数人居たが、この場所の先に道があるというよりはここは行き止まりのように見え、サッカーができる環境がある幸せ以上に、地球の裏側まで来た自分がいる場所がここではない事を感じとった。

 

練習後にシャワーを浴びていると、サッカー浪人である同世代のアルゼンチン人達は言葉を話せない自分をからかいながら話かけてくる。

からかわれる以上に日本人のサッカー選手として馬鹿にされた。

遥か遠く日本からわざわざアルゼンチンまで来てサッカーをしているという事だけで馬鹿にされる。

短絡な言葉に選手としての未熟さを僕は感じてしまった。

正確には言葉の意味は理解できないが、けなされている事は感じ取れた。

サッカーというのは瞬間的な判断が要求される。これは実人生と同じで、

チームメイト、対戦相手、ライバル、審判への接し方…技術は差し置いてもプレーを通して人間性が出てしまう。

 

この場所でプレーをする以上僕も彼等と同じだ。

人を変えるのは環境しかない。自分で環境を変えていかなくてはならない。

日本と違い言葉も通じないアルゼンチンという国でアクションを起こし環境を変える事は難しい。

そんな悩みを抱えたある日 、代理人の口から思わぬ話が切り出された。

 

リバープレートのサテライトへの練習参加。(トップチームの下)での…》

 

リバープレートのトップチームの監督は

Jリーグマリノスでもプレーしたラモン・ディアス氏だった。

多少なりとフロントスタッフに日本人の印象が良かったのだろうか、しかし実力も分からない日本人をサテライトの練習に参加させるのだから、代理人との間に何らかのお金のやり取りがあった事は想像ができる。

どんなカタチにせよ練習参加は事実だ。

しかし、どんなに練習で結果を出しても公式戦に出場する事はできない。

当時のアルゼンチンではプロアマ問わず永住権を持っていなければ公式戦に出場する事ができなかったからだ。

 

リバープレートでの練習初日、

サテライトの顔ぶれにはアイマールやソラリが居た。

全体でのウォーミングアップを終えると僕の練習場所は紅白戦が行われるグランドの外になる。しかし僕はチャンスを伺っていた…

 

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90ミニッツ

アルゼンチンに到着して2日目の朝。

流石に30時間近い長時間移動の疲れは16歳のヤングな身体にもそれなりにやってきた。

この日は特に予定を入れず休息日にしていたが、家でゆっくりと身体を休める事よりも早くブエノスアイレスの町を歩いてみたいという気持ちが強かった。

朝食に何を食べたか覚えてないがトーストと目玉焼きのような簡単なメニューだったと思う。

きっと僕はトーストの上に目玉焼きをのせて一気に食べたはずだ。

高校でのサッカー生活を終えたばかりの僕の髪は坊主ではないが短く、体つきも細かった。

上下ジャージのような簡単な格好で町に出たのは、それが僕の中でのオシャレだったという事と、サッカー選手として日本からやって来たという小さなプライドだった。

外の景色を眺め、この町に長く住むという実感は全く芽生えていなく、修学旅行のような感覚で街並みや行き交う人々を落ち着きなく目で追っていた。

ブエノスアイレスの街並みは前にも記したが、南米のパリと呼ばれるほど古き良き佇まいの建物が立ち並んでいる。

日本と同じ銘柄の炭酸ジュースが売っている事が嬉しく、映画館の前を通ると日本でも宣伝していた映画がかかっていたのも嬉しかった。

僕はブエノスアイレスの街並みの中に自分の知っているモノを探し、安心を得たかったのだと思う。

昼食は代理人と5ペソ(当時は1ペソ=1ドル)食べ放題の中華屋で、具材などほとんど入っていない麺ばかりの焼きそばと米と卵のみのチャーハンをお腹いっぱい食べた。

頭と心にホームシックはなかったが、身体はホームシックになっていたのかもしれない。

 

食事を終えた午後。アルゼンチンの有名サッカークラブ、リバープレートのスタジアムと練習施設を見学に行った。

6万人以上収容するスタジアムのすぐ脇に練習場があり、小学生になるかならないかであろう小さな子供達が試合をしていたのでしばらく観戦してみた。

子供達のサッカーの上手さに気づくには少々時間がかかった。

なぜなら分かりやすいフェイントなど南米のイメージであるドリブルテクニックが目立つわけでなく、敵がいない方へ逃げながら、確実にボールを相手ゴールへ運ぶという派手ではないが、日本の高校生や大学生のようにボールを動かしている上手さだったからだ。

そしてもう一つ驚いたのは試合がなかなか終わらない事で、代理人の知人でリバープレートのコーチをしている人に質問すると、45分ハーフの90分ゲームをしているという。

大人と同じ試合時間を6.7歳の子供がプレーしていたのだ。

毎回ではないかもしれないが、この世代から

90分間の試合運び、ペース配分を身につけている。

日本の小学生が90分のゲームをしているなんて事を聞いた事がない。せいぜい30分ハーフの60分。それでも長い方だろう。

この時、日本はアルゼンチンにまだまだ勝てないと思ってしまった。

そんな僕がまず練習に参加したのが、

元アルゼンチン代表のトログリオが主催する選手育成組織だった。

そして僕はいよいよアルゼンチンサッカーの内部に入っていく。

 

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*写真一番左が僕です。

アルゼンチンサッカーの底辺。

30時間ほどのフライトを終え、ブエノスアイレスに到着した時には身体の節々が縮んだような感覚があった。脳みそは筆が進まない作家が丸めた原稿用紙のようにクシャクシャに丸められていた。そんな感覚だ。

ただ僕は飛行機で良く眠れる男らしく、ほとんどの時間を寝て過ごした。

そのおかげで体内時計が狂い、正常な時間感覚というものを失ったようで、到着したブエノスアイレスの時間が正常な体内時間だと認知したのか時差ボケはなかった。

体内電池を入れ替えたようだ。

ブエノスアイレス

ブエノスは良い。アイレスは空気…という意味だ。そんな話を代理人日系人から聞くと、空港で大きく息を吸い込み深呼吸をしてみたが、

そのアイレスは成田空港となんら変わらない気もした。しかし入り込んんだ空気の量が違って感じたのは、僕の肺が空気を欲しがっていたのかもしれない。

 

空港からブエノスアイレスの中心部までは車で1時ほどかかったはずだ。

バスでも行けるが、荷物の多さからレミースと言われる無許可の個人タクシーを利用した。

レミースの運転手達は空港出口で待ち受け、入国者に声をかけてくる。

値段も決まってなく、目的地を伝えて交渉するのだが、アルゼンチン人にとってアジア人はお金を持っているイメージがあるのか、代理人が値切り交渉をすると運転手は眉間にシワを寄せ僕らを見ずに車に乗り込むようにジェスチャーをした。

 

空港を離れた車。

見えてくる景色は有り余る土地だ。

その至るところにサッカーゴールの枠だけが無数に立っている。

いつでも誰でもが好きな時にサッカーができる環境にアルゼンチンサッカーの底辺を見た。

街を歩く子供達はボール抱えている。

大人達は自分の好きなチームのユニフォームを着ている。

しばらく進むと、アルゼンチンサッカー協会

AFAの文字が書かれたゲートが見え、そこは代表チームの練習施設だと代理人は教えてくれた。

マラドーナがいた代表。カニーヒァ、バティ、オルテガガジャルドアジャラクレスポサネッティシメオネ、、アルゼンチン代表が

目の前のグラウンドで練習をしたと思うと興奮した。

自分はアルゼンチンまで来たと実感が突如湧いた。

飛行機の中で数時間寝ても見れなかった夢が、

目を覚ました現実の世界に広がっている事が不思議だった。

目的地の住居に到着すると、そこはアルゼンチンの中心部にほど近く、高いビルもあるような都会だった。

東京で育った僕は何の違和感もなくその景色を受け入れたが、今思い返すとブエノスアイレスの景色に東京を重ねただけの錯覚だったのかもしれない。

アルゼンチンで過ごした3年間、一度もホームシックというものが無かったのは都会の錯覚が生んだ処方薬だったのかもしれない。

僕のブエノスアイレスでの生活がはじまった…

その日の夕食は牛肉だった。f:id:onigiridream:20190609175650j:image

赤い手帳からオフサイドした写真…そして離陸。

 

空港は独特な匂いがする。

世界中の人々が集まった空間。人の匂い。

免税店に置かれた数種類もの香水か混じり合った香り。様々な食べ物の匂い…

成田空港は広く、天井もあんなにも高いのに、色のない匂いは僕らの小さな鼻の穴に入り込んでくる。

匂いというのは不思議と人の記憶に染み付く。空港の匂いを嗅ぐと、何処でも良いからどこかへ旅に出たくなるのが不思議だ。

 

今のようにEチケットなどなかったから、

事前に発券されたアルゼンチンまでのチケットをパスポートに挟み、リュックの底に大事にしまい込んでいた。

チケットを無くしたら僕には行き場所がなくなり、人生の迷子になってしまうような、そんな怖さがあった。

航空会社はカナディアン航空を利用し、

アルゼンチンまではトロントリオデジャネイロを経由してブエノスアイレスに到着する。

トロントでは一度税関を出て、カナダに入国し、改めて出国手続きをしてから、次のリオ行きの便に搭乗する事を代理人から聞いていた。当時はそれがどういう事かあまり理解できていなかった。

 

母親は空港まで見送りに来てくれていたが、別れ際に何を話したかは覚えていない。

しかし、記念に写真を撮った事は覚えている。

アルゼンチンから帰国して数年後経ったある日、テーブルに無造作に置かれていた母親の赤い手帳からその写真がはみ出していた。

もしかしたら未だにあの写真は赤い手帳に挟まれているのかもしれない…

 

飛行機はその日の風向きを見て、向かい風に向かって全速力で助走し飛び立つと聞いた事がある。不器用な僕もまた、わざわざ向かい風を探しアルゼンチンへ走りだしたのかもしれない。

同じ方向に突き進んでいても風向きはいつしか変わるはず、今思い返せばそんな日を信じ走り出したのかもしれない。

 

離陸してからしばらく時間が経っていたのかシートベルト着用のランプは消えていた。

僕はそれに気がつかずにいつしか眠っていたようだ。

体中が緊張や不安でいっぱいだったのかもしれない、今でも様々なことに追い詰められると眠気がやってくる。

きっと睡眠中に物事を整理しているのだと思うのだが、正直睡眠中の整理より、起きて行動した方が解決の近道だという事は恥ずかしながら昨日知った。

外国人のスタッフが食事を運んでくると、僕の前に座っていた日本人のマネをしてチキンと答えた。

まるで始めて人と話すかのように緊張した僕に、客室乗務員は笑顔で食事のプレートを差し出してくれた。

僕は今も機内食が好きだ。味ではなく、あの時不安や緊張を一瞬でも紛らわしてくれた恩がある。

パサパサのパンも味気ないおかずも、皮を剥いたらいいか、そのまま食べたらいいか分からない一粒のブドウも好きだ。

 

空を飛ぶ飛行機の中にいる僕は、地に足をつけていない。何者でもないという事が少し嬉しかった。

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